PCとようやく仲直り。
いやはや、配線一本で左右されてしまう日常とは、なんと可笑しなものか。
真偽を問われない情報の氾濫に、時折不安を感じる。
嫁が某掲示板を、興味本位で覗きながら、一喜一憂している。
身近な人間にしか知りえない情報であるが故か、はたまたいかにもな姿をしているせいなのかは分からないが、内容を吟味するという作業を抜きにして事実として認識してしまっているようだ。
最近は何かを調べたりする際に、頻繁にインターネットを利用しているが、その情報量の多さに圧倒されてしまうと同時に、その多さに対する不信感を感ぜずにいられない。
最近の政に関してもこの手の問題が取り沙汰されている。しかし、その問題の本質そのものが注目を集めることは当然ではあるが、それを取り巻く世界と、それを享受する立場にある自分達にも革めなければならない点があるのではないだろうか。
簡素化されたルートから得られるものは、コストがかからず手ごろであると同時に、そのモノに対する価値判断を当事者のみでしか行なえないという危険性がある。
出所の知れない、真実であるかどうかもわからない情報に対し慎重さを失った時、誰しもが裁かれる事無い加害者と成り得る。
だからといって全てを疑っていては、何も得ることはできない。
ならば、何かを手にしそれを利用せんとするとき、それを与えた人間、または創り上げた人間にその責任を求めるのではなく、それを利用する立場であるという責任を持っていればいいだけの話だ。
これほどまでに簡単に多くの情報を得ることができる以上、それらを得ているもしくは得ようとしている以上、これは当然のことではないだろうか。
話は多少ずれるが、ごく身近な人物で過剰なメディア合戦に巻き込まれた方がいる。その方は、根拠の無い報道に振り回されたわけだが、最後に残ったものといえば憤りぐらいでしかなかった。
謝罪らしいことなどほとんど無い上に、「過ぎたこと」という態度しか返ってこない。(モザイクかけまくってるアレ、隠してるようで隠れてないよ。分かる人にはわかるんですから。目、疲れるし。)
「本当かどうかはわからないが・・・」
という前置きを語るぐらいなら、初めから口チャックするべきだ。
一旦、それらしい形で公表されてしまった情報のほとんどは、疑われることなく世間の皆様に受け入れられてしまう。そして、後に「誤りだった」と言われても、根付いたイメージからは何故か抜け出ることはできないものなのだから。
おお、怖い。
流し書きで失敬。